存在の事実は、マティエールを通じて事実としての存在への感覚が実現される時、過去の単なる記録になりはてることなく、時をこえた永遠の現在を獲得するはずである。自らの存在の暗い深淵に沈潜していた靉光は、1943年、大陸旅行の途次、依頼に応じた肖像画制作に「先の光明を見出し」「神経質な近代病にとりつかれないようにがっちりとして全裸の自然に真正面からぶつかって行きたい」と語っている。それは要するに、近代的な自意識からふっきれて、事実としての存在という普遍的なものへの回帰であった。帰国後、残されたわずかの時間に靉光は少なくとも3点の自画像を残している。これはその1点で、応召の際、その年の新人画会展に出品するよう友人に託された作品であり、自らの存在を事実としてとどめようとせずにはおれない画家の心情は切実である。しかし、そこに感傷はない。画家自身と交わるのを避け、遠くあらぬ方に向けられた目に完全にふっきれた自己否定を、立派な体躯に宇宙に参与する者の崇高さを認める時、この自画像は靉光という一個の存在をこえた英雄としての、主体的に人間の歴史を切りひらいた芸術家の肖像として現れてくるだろう。
(出典 文化遺産オンラインホームページ)
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