走りぬけるために生まれてきた、と思われるほど短く激しい槐多の軌跡は、自らの情熱と無垢なイメージをそのまま画面にぶつけた作品群によって彩られている。しかもそれらの作品は、いずれもが表現主義的とさえいえるほど、様式や技法にとらわれることなく、槐多自身の心情や生活が色濃く投影され、荒々しいが純粋で清明な詩情と燃焼するような生命感にあふれている。この作品では、咲き乱れるバラを背景に、健康的だが異様に頬の赤い少女が微笑しながら立つ姿が描かれている。槐多は描かれた少女を介して、匂い立つ花や草木に宿る精霊と交感していたのではないかと思われるほど、自然のもつ原始的な生命観を表出している。しかしこの画面からは、槐多がこめようとした野性的な生命観とは裏腹に、寂寞(せきばく)とした雰囲気が感じられる。それは、この作品の描かれた年に、果たされなかった女性への恋情と追憶を画因として《湖水と女》や《乞食と女》が描かれ、また生活も破滅的なものへ急落していったことによると思われる。ただし、そうしたかげりを漂わせつつも、少女の豊かな量感と堅固なフォルムのうちに、けっしてデカダンスに韜晦(とうかい)することなく、自己を見失うまいとする槐多の意識を見いだすこともできよう。
(出典 文化遺産オンラインホームページ)
|